イリュージョンの殻
パーソナリティーとして、われわれの多くが苦心しながら道を辿っている。しかし、正しい意図と努力の結果として、やがてパーソナリティーの感覚が内なる真我の影響力によって上から相殺されるようになるだろう。諸体との同一化から免れ、個人的な反応から解放されるのである。このようにして、われわれの苦痛はなくなるだろう。そして、自分自身に生じる苦痛や問題に対処できるがゆえに自己看護の必要性がなくなるとき、われわれの”自己”なる概念は拡大され、パーソナリティーの感覚によって今は打ち消されている霊的な意志の感覚が強烈になり、自由意志は塗り替えられ、霊的なヴィジョンとして把捉した必要性のための労働がよりいっそう力強いものとなるだろう。このとき、諸体と人間はつねに純粋で聖なるものの僕である。
672夜によって、これまで多くの方と対話する機会を得てきた。そして、ほとんどの方が真剣で、礼儀正しく、良い人であることに気がついた。しかし、幾人かが常識を逸脱しており、混乱して、他人に迷惑をかけるような存在へと堕していた。こうした精神状態ゆえに、彼らの苦痛は輪をかけて強いものとなっている。ラマナ・マハリシは、適度に人々と会話をすることの重要性を説いた。イリュージョンの殻に閉じこもる孤独な人は、しばしば変人になりがちである。霊的な道において、常識の重要性はより強く唱えられねばならないだろう。
霊的に必要とされる孤独は、自らが社会環境に適応できないことに由来するいじけた孤独ではなく、もっと質料的な意味合いのものではなかろうか。魂によって課されるある種の限定によって、身体的な孤独の期間が訪れることはありうるかもしれないが、そこに劣等感や自己憐憫、押し殺された欲望が維持される余地はない。たとえば第二イニシエーションを準備している弟子が、いわゆる「アストラル的な芳香」に敏感になることは、霊的な真の孤独の第一歩である。弟子は、人々が発散するアストラル・フォースを敏感に捉え、それが自己を浸食しないように秘教的に防御する術を行使する。もしくは、より進歩した場合、弟子はそのフォースに働きかけることができるようになり、その結果として、人々としてはまことに神秘不可思議ながら、弟子と一緒にいる場合は、なぜか落ち着きや静けさが得られるということに気づくだろう。
低位の波動からの孤立が弟子にとっての孤独である。しかし、波動の不一致から生じる外的な孤独を、多くの探求者たちが自らの過失や性格上の問題のせいとして誤解している。もしくは、自分を理解できない者等の無能のせいと見なしている。現代の物質界においては、物質性のフォースもしくはアストラル・フォースがより高位のフォースより勢いがあることを忘れてはならない。そのため、低位のフォースに”不快感”を覚える弟子たちが、勢いのあるより濃密なフォースから距離を置くことは自然なことである。
しかし、弟子にとっては全く平凡な出来事である孤独の正当性をメンタル的に平静に認識しようとすることなく、世間や他人に対する非難の眼差しばかりを培う弟子は、それがしばしば長期にわたって続くため、結局のところ取り返しのつかない生涯を送らざるをえなくなっている。彼らは、繰りかえされる苦痛の警告によって、自分の態度や人生が今のところ間違いであり失敗であることに気づかされるまで、同じパターンをくり返し人生のなかで演じつづけねばならない。そして、この悲しみと苦痛の期間は、魂からの救済が途絶えたままであるため、文字通り地獄のような日々である。
殻に閉じこもってはならない。表面的な態度や理不尽さに目を奪われることなく、人々を理解しようとするならば、おそらく理解は同情へと変わり、同情は愛へと、そして愛は忘我を生み出すにちがいない。なぜなら、人々もまたわれわれと同様、統御できないフォースの犠牲者にすぎないからである。自らの個人性の偽りに気づいた弟子は、他人の個人性というものの偽りにも必然的に気づく。言い換えれば、自らの内側に神性を垣間見た弟子は、すべての現象の背後に神性を見出す。われわれの義務はすべての形態の背後に隠された神性の開花であり、表面上の人生や出来事やドラマにはない。それは霊的に見れば結果の世界に属しており、弟子たちが住み、かつ働きかける世界とは異なるのである。
理解を持たない弟子は弟子ではないと教師は言っている。だからと言って、ふたたびグラマーに陥って、「私は彼より遙かに進歩している。だからより進歩していない彼の態度がよく理解できる。それゆえ、私は彼のことを理解してやらねばならないのである」と自らに言い聞かせることで自尊心を維持しようとしないよう気をつけなければならない。
結局のところ、弟子が正しい態度を維持するかぎり、彼の運命に生じることは、いずれも次へとつながる意味もしくは価値を秘めており、たとえその時理解できないとしても、しばらくすればなぜそのような状況が必要であったのかがのみ込めるものである。不必要なことはけっして起きないだろう。このことを覚えておくことで、無駄な想像に気分を害する時間を使わずに済むだろう。
霊的な孤独の道は、世間的な社交性と矛盾しない。むしろ、より魂的になり、パーソナリティーとの切り離しを学び、個人的な反応から自由な傍観者の地位へと退くにつれ、すべての人間的な営みは容易くなるものである。われわれはパーソナリティーと同一化した特定の個人という立場から解放されて、その時々に必要とされる個人を演じる者――霊的な演技者の位置へと前進するだろう。こうして、弟子は物質界では目覚めた演技者としてとどまりつづける。このような非個人性によって、弟子の手腕は物質界での有益性を維持できるのである。
