2009年5月28日

自己改革に関するわれわれの一般的な努力は、魂的な見地からすれば不自然な抵抗と見なされている。高位のエネルギーが特定の体を通ったあと、そのエネルギーをオカルト的にはフォースと呼んでいるが、魂的な気づきと統御が上から行使されないかぎり、人間すなわちフォースの集合体は、必然的にフォースの奴隷であり、フォースの自動的な結果にすぎない。しかしこの種のフォースを用いて、われわれ(つまり人間魂)は、たえず努力もしくは対極への逃避へと駆り立てられている。それは特定の段階において必要な向上を生み出しうるし、正しい役割を担っているが、ひとたび見習いの弟子が魂と接触するようになると、この種の動きは新たな拒絶の対象として加えられるだけである。弟子が魂のエネルギーと接触するということは、遅かれ早かれ、その高位のエネルギーによって低位のフォースを置き換えるという作業の習得を迫られるということである。このとき弟子が悟ることは、霊的な見地からしたすべての過ちがフォースの誤用にあるということ、つまり、みずからが魂への偏極と魂の波動を維持できないことに由来しているということである。

弟子は瞑想のときのみ、魂をわがものと感じる段階を速やかに卒業しなければならない。途切れることのない魂への服従とパーソナリティーの拒絶が要求されている。経験は必要だが、経験がその終焉へと直接導くわけではない。努力なる動きは受容と観照へと席を譲らねばならず、そのような思慮ある直視によって、低位の対象を上へとあげなければならない。それは努力ではなく自然であり、あらゆる拒絶のオカルト的な結果である。偏極がパーソナリティーから魂へと移行し、すべての思慮を欠いた動き、すなわちフォースへの隷従が過去のものとなるとき、見習いの弟子はおそらく弟子でありうるし、少なくとも見習いの段階とは比較にならない有益性の自発的な奴隷へと志向できる。

すべてはエネルギーとフォースであるという基本的な公理は、概念の枠をとびこえて実際生活のなかで応用されねば意味がない。自らがどのフォースに使用されているのかをたえず把握し、上から統御しないかぎり(そしてこのようなテクニックは瞑想だけが教えるだろう)、すべての動きはカルマ的であり、次なる経験への種子を含んでいる。弟子が経験と知恵を融合させたとき、終わりのない経験の連続は価値を失い、あらゆる対極的な揺れ動きと逃避は否定される。欲望や恐れといったすべての概念は、内的なフォースの処理のなかで忘れられる。低位マインドをたえず忙しなくさせる必要性から解放され、弟子は低位マインドと高位マインドとの連結の作業を推進させる。このようにして、弟子は概念や観念といった世界から、直観の領域へと移行できるだろう。

一般的に有能と見なされている男女の多くが、情緒のレベルから動かされている。彼らは純粋に運命のしもべである。みずからの有益性を彼らは誇ることができないし、すべての見当違いに傲慢さと知性の欠如を見ねばならない。われわれの奉仕や奉仕への意志は、あらゆる否定ののちに生まれる魂の本能ではなく、人間的な、つまりカルマ的な腹黒さをかかえた自己主張であるにすぎない。このような無意味さに霊的な欠落を見、静かに誤謬を否定して、われわれは自らを否定しなくてはならない。われわれの理想とする状態や段階、そしてそれらをすでに達成している魂たちが行う理想的な奉仕、これらはわれわれの奉仕とは無関係である。