純粋さ

弟子は内面と外面の双方に等しく目標を維持していると言われている。しかし、ある人は内面ばかりを重視して、外的な世界や人々との関係もしくは接点を失っている。別の人は、外的な目標にばかり目を奪われて、魂を重視せず、”身体である私”を行為者と見なし続けている。いずれも霊的なバランスを欠いており、真に必要性に対して有益であることはできない。また、時折り、すでに精神の均衡を失ってしまっている人も見受けられる。彼らは、霊的なものへの傾注をやめて、ただ病院へ行くべきである。精神病患者がオカルトの知識にのめり込んだり瞑想を行ったりすることは、逆効果であり、また危険である。逃避の延長として、彼らはオカルトの概念を自身の夢幻的な世界へと引き込んでおり、自らの夢見がちなレベルで解釈する。それはグラマーとイリュージョンの世界であり、悪い方向にしか彼や彼の周囲を導かない。霊的な道や弟子道は、常識的な知性を喪失するものではないということ、周りの人々に迷惑をかける存在に堕すことはないということ、このような当たり前のことを再び強調しなければならないのはなぜだろうか。

宗教や霊性へと人々を駆り立てる動機がしばしば人間の逃避願望であることはよく知られている。われわれは、辛い現実から逃れて救いを見出したい。このようにして、われわれは献身に値する人物なり偶像なりを発見し、もしくは熱誠を傾けるに足る教えを見出し、それしか見えなくなる。そしてバランスを失うのである。われわれは、自らの献身や熱誠が、自らが適応できない辛い現実から逃れるための逃避願望に支えられているということを認め、目を向けるべきは逃避する先ではなく、自らの現実世界つまり現在であるという教訓を学び終えるまで、いくらかの間違いを犯し続けるだろう。何であれ、対象に執着したり、それに飲み込まれたりすることはできない。特に第六光線の弟子は、一つの教えに没頭し、排他主義に陥る傾向が強いため、注意して、あらゆる概念から距離をとるということ、自らの解釈が自らのレベルに応じた私的で一時的なイリュージョンであるということを覚えておかねばならない。

わたしは、現実世界に戻って外的に問題を解決すべきであると提唱しているわけではない。実のところ、われわれの多くが、問題を外部の何かであると考えている。外部の問題に対する解決は、つねに外部のものでなくてはならないと考えている。貧しい人は金を得ることで解決できると信じ、孤独な人は慰めてくれる誰かが現れることで解決できると信じている。いずれも、外的な問題を克服するのは外的な解決であるという安易な信念が根底にある。これは、少なくとも弟子的な発想ではない。

外的な解決を得るためには、不確定な未来に対する努力が必要とされる。この努力は多分に摩擦を含んでいる。今はないものを獲得しなければならないという摩擦と、努力をしても獲得できるか分からないという摩擦。しかしながら、もし人が弟子であるならば、摩擦なくして行為できるようにならなければならない。これはどのような意味だろうか。

弟子は、「わたし」という単位にまつわる何らかの分離的な動機のために行為をすることはない。彼は想念つまりメンタル体のフォースに邪魔されず、ただ行為をする。そして、行為に対して強烈に気づいていることで、自らを魂的な位置へと保っている。弟子が何かをするときは、ただそれが正しいから、すべきことであるから、義務であるから、などといったそれそのもののために行うのが大半である。ところが、それそのものの範疇にはない”動機”なるものが行為の内に潜むとき(言い換えれば魂的な自然さがパーソナリティー的な不自然さによって汚されるとき)、その霊的な不潔さと矛盾によって、摩擦は避けられないのである。たとえば、魂を重視せずに外的な身体での奉仕にばかり恍惚となっている人は、救世主コンプレックスに陥って、自我を強めるために奉仕を行う。そして、奉仕をしている相手から意想外にも無礼な態度を取られた場合、「わたしは私利私欲を廃して彼のために奉仕をしてやっているのに何という理不尽な態度を取るのか」と憤ることになる。ところが、分離的な動機からではなく、魂の位置からただ奉仕を行う弟子は、その非人格という清潔さによって、相手の無礼な態度から何の打撃も被ることがない。

弟子が魂であるとき、パーソナリティーのフォースつまり動機から自由であり、より高位のエネルギーつまり意志と一体化しているがために、強烈に現在であり、且つ、ただものごとを行うことができる。したがって、摩擦がないのである。彼は執着していない。彼は結果や未来つまり想念を見ていない。より進歩した弟子の場合は、自分が行為しているという感覚から外れている。つまり想念から自由である。だから摩擦がない。

このような知恵が自らの手腕として実際生活に備わるとき、弟子は外部の問題に対して外的な解決で応じねばならないという強迫観念に縛られることがなくなる。彼は、知的且つ魂的にすべきことを把握し、ただ必要なことをするだけであり、そのすべての瞬間に神と愛を見るだけである。その結果に関しては彼の問題ではないし、執着の対象からも外れている。弟子は、結果への執着から自由であり、すべての運命と、すべての身体的行為を現在なる純粋さ、無行為者なる純粋さへと捧げることによってのみ、魂的な位置へと引き下がっている。ところがわれわれの多くは、情緒的およびメンタル的な騒々しさゆえに、まだ霊的な知性を機能させておらず、結果としてさまざまな”こぶ”をかかえており、執着をおろすことができない。かくして、自らの選択によって、われわれは困難と苦痛へと縛られねばならない。

したがって、逃避のために霊性を志向している人は、それを認め、その現実つまり自分自身へと目を向け、そうすることによって内的に問題を解決しなければならないと言うことができるだろう。それはメンタル的にとか心理的にとかいう意味ではなく、エネルギー的にとかフォース的にとかいう意味である。内的に自らの摩擦や苦悩を見るとき、そこに思考や分析が入ることはない(そうした動機に満ちた抵抗はいっそう苦悩を高めるだけだろう、言い換えれば、フォースに対し同種のフォースで応対することは無意味である)。見るとき、想念は空虚さを維持せねばならず、頼るべきは魂と直観だけである。見るとは、無抵抗であるということであり、それを受け入れるということである。何のパーソナリティー的な抵抗もないときのみ、見ることができる。そのとき、抵抗がないということそれ自体によって、瞬時に問題は終わりである。そこには静けさと、平和と、喜びがあるだろう。そして、それが魂において自然であることが悟られるだろう。あらゆる無価値、苦痛、葛藤は、すべて人間のわがままと執着の結果にすぎず、それらから自由であるとき、われわれは幸福なあまり、「足るを知る」という教訓の真意を学ぶのである。