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		<title>訓練</title>
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		<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 07:43:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[弟子道]]></category>

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		<description><![CDATA[日々の苦痛は問題だが、苦痛の闇だけが人々に日の光を求めさせることもまた事実である。わたしは、苦痛を大切な友のように感じてきた。のちに苦痛の感覚の最奥に喜びの領域があることを知ったとき、さらに輪をかけて苦痛の素晴らしさに気づいた。このような描写は普通は奇異に聞こえるものだが、ここでは予備的な知識を持っている人々の前で書いている。 苦痛に悩む不幸な人々のうち、ごく少数が魂の旅路へ導かれる。このような人々は幸福を目前にしている。苦痛にあえぐすべての人間が霊的な目覚めを知るなら良いことだが、それはまだ望めない。672夜では幾度となく、苦痛の対極を求めないということ、つまり苦痛の感覚にとどまるべきだということを書いてきた。これは失敗すると内的なエネルギーの鬱屈を引き起こすだけで余計に事態は悪化するが、正しくテクニックを習得すれば苦痛のなかに喜びを知ることになるだろう。 苦痛にとどまるとき、その動機が「苦痛から逃れるため」とか「苦痛のなかの喜びを知るため」とかである場合、対極への希求が行為の根本にあるため、「精神はだまされない」。真の見守る技術は、この種の動機の結果でしかないパーソナリティーの領域というよりもむしろ、魂の位置から行われるものである。これは観照の状態から行われるという意味ではなく、魂のエネルギーに従順になる技術を意味しているのであり、魂との接触を意識的に得るようになる見習いの弟子と呼ばれる段階から可能になるだろう。そのとき、われわれは苦痛に対して何もしようとしないだろう。それはただそのままにされる。 このように書くと、「苦痛をそのままにしたら、なお苦痛が続くだけではないか」という疑問が生じるかもしれない。しかしながら、魂である弟子は、メンタル的な抵抗に由来する精神的な苦痛に対して、依然として「抵抗」を助長するようなことはしないだろう。彼はただ見、確認し、また「われ」へと戻る。やがてこの動きは自動的なものとなり、最終的には何の苦痛もなくなる。しかし、平均的な人間にあっては不可能と思えることが、なぜ弟子の場合できるのか。結局のところ、鍵はつねに魂である。心地よく眠っている人が周囲の雑音を気にしないように、魂に安らう弟子は個人に由来する苦痛が気にならない。それは一事が万事、錯覚であり、自作自演として見なされている。 したがって、つねにわれわれの結論は魂との融合であることが明らかである。というのも、誰も第三イニシエーションを受けていないからである。この「目標」が興味と関心のすべてを占めるとき、生活上のあらゆる規律と訓練は自ら望む意図的なものとなり、つねに魂との融合という目的へと連なる意志のもとで為されることになるだろう。したがって、古くさく聞き飽きた「無執着」や「諦念」といった概念が、このうえなく貴重でいろどりゆたかな意味合いを帯びてくる。日常生活において行われるすべての自覚的な訓練が魂のためであり、真の価値ある融合のために為されるようになるのである。このとき、日々の訓練の一つひとつが宝である。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>日々の苦痛は問題だが、苦痛の闇だけが人々に日の光を求めさせることもまた事実である。わたしは、苦痛を大切な友のように感じてきた。のちに苦痛の感覚の最奥に喜びの領域があることを知ったとき、さらに輪をかけて苦痛の素晴らしさに気づいた。このような描写は普通は奇異に聞こえるものだが、ここでは予備的な知識を持っている人々の前で書いている。</p>
<p>苦痛に悩む不幸な人々のうち、ごく少数が魂の旅路へ導かれる。このような人々は幸福を目前にしている。苦痛にあえぐすべての人間が霊的な目覚めを知るなら良いことだが、それはまだ望めない。672夜では幾度となく、苦痛の対極を求めないということ、つまり苦痛の感覚にとどまるべきだということを書いてきた。これは失敗すると内的なエネルギーの鬱屈を引き起こすだけで余計に事態は悪化するが、正しくテクニックを習得すれば苦痛のなかに喜びを知ることになるだろう。</p>
<p>苦痛にとどまるとき、その動機が「苦痛から逃れるため」とか「苦痛のなかの喜びを知るため」とかである場合、対極への希求が行為の根本にあるため、「精神はだまされない」。真の見守る技術は、この種の動機の結果でしかないパーソナリティーの領域というよりもむしろ、魂の位置から行われるものである。これは観照の状態から行われるという意味ではなく、魂のエネルギーに従順になる技術を意味しているのであり、魂との接触を意識的に得るようになる見習いの弟子と呼ばれる段階から可能になるだろう。そのとき、われわれは苦痛に対して何もしようとしないだろう。それはただそのままにされる。</p>
<p>このように書くと、「苦痛をそのままにしたら、なお苦痛が続くだけではないか」という疑問が生じるかもしれない。しかしながら、魂である弟子は、メンタル的な抵抗に由来する精神的な苦痛に対して、依然として「抵抗」を助長するようなことはしないだろう。彼はただ見、確認し、また「われ」へと戻る。やがてこの動きは自動的なものとなり、最終的には何の苦痛もなくなる。しかし、平均的な人間にあっては不可能と思えることが、なぜ弟子の場合できるのか。結局のところ、鍵はつねに魂である。心地よく眠っている人が周囲の雑音を気にしないように、魂に安らう弟子は個人に由来する苦痛が気にならない。それは一事が万事、錯覚であり、自作自演として見なされている。</p>
<p>したがって、つねにわれわれの結論は魂との融合であることが明らかである。というのも、誰も第三イニシエーションを受けていないからである。この「目標」が興味と関心のすべてを占めるとき、生活上のあらゆる規律と訓練は自ら望む意図的なものとなり、つねに魂との融合という目的へと連なる意志のもとで為されることになるだろう。したがって、古くさく聞き飽きた「無執着」や「諦念」といった概念が、このうえなく貴重でいろどりゆたかな意味合いを帯びてくる。日常生活において行われるすべての自覚的な訓練が魂のためであり、真の価値ある融合のために為されるようになるのである。このとき、日々の訓練の一つひとつが宝である。</p>
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