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		<title>受容について</title>
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		<comments>http://www.672ya.com/2010/02/28/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 28 Feb 2010 10:08:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[弟子道]]></category>

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		<description><![CDATA[探し求める者らの生活に楽しみや喜びは必要ない。絶えざる苦痛、陰鬱、悲嘆、諦めの気持ち、これらのほうがふさわしく好ましい。探求の合間の娯楽を持つ者は、自らの不真面目さを認め、彼にとっては逃避と趣味でしかない探求の領域を諦めねばならないだろう。探求の合間の娯楽がありえない人、それほど苦渋をなめ、もはや楽しみや喜びといったものに危険を感じる人、このような弟子だけが、中道から通ずる魂の扉にふさわしく、非人格のより高次の喜びを享受するに適している。
第一や第二イニシエーションを準備している弟子は言うだろう。自分の人生は不幸に見えるが、なぜかくも苦痛が喜ばしいのかと。つまるところ、苦痛だけがぼんくらを正気へと返らせ、高飛車を謙遜へと引きずり下ろし、事の火急性と切迫性に目覚めさせることができる。人々はわれ知らず欲望と恐れに掻き立てられて、いらぬ競争へと飛び出し、遅れをとり、罰を受ける。魂の居所をつきとめた弟子は、たえず競争へと飛び出させる欲望と恐れを直視し、概念としてそれらに立ち向かわず、フォースとしてそれらを尊重することでその場にとどまるだろう。結果、対象とわれ自らが何の分離もないことを悟り、欲望すなわち我、恐れすなわち我の状態から事の解消を即時に知る。
「問題などない」が弟子たちの口癖である。生活のなかで問題は生じるが、心理的にそれを問題と感じないと彼らは言っているのである。周囲から四面楚歌をくらった弟子が奉仕の場で動揺するだろうか。倒産寸前の社長である弟子が絶望を感じるだろうか。愛する者を失うことで悲嘆に暮れる暇が弟子にあるだろうか。弟子である彼らは、あらゆる心理的な”事件”に対しすでに免疫を得ている。そのかわり、彼らは日頃から個人的に求めず望まず、朝から晩まで自分のことを重視しない。彼らにとって、それは犠牲でも努力の賜物でもなく、また将来の不幸に備えるための策でもなく、必然的な魂の作用でしかない。
魂の存在を知覚的に知っており、ますますその圧力に屈しようと意図的に服従する人々が近年増えている。人生から楽しみを享受したい人は、呼びかけを無視し、出て行くだろう。いかなる魂もこの無視行為に腹を立てない。まだ克服しきれぬさまざまな欲望に打ち勝てぬ人もまた、意図的に外へ出て行くだろう。いかなる魂も彼の意図的な飛び出しを尊重する。しかし、人生から苦痛とその論理を学ぶことで自らの自演行為に恥じ入ったならば、”あるがまま”の位置へと戻ってきて、その知的な謙虚さを崇拝し、魂の楽しみに存分に耽るがいい。
金銭的な不如意を訴える探求者のメールをこれまでいくつも受け取った。しかし貧乏でなければ弟子道は困難である。金持ちの環境を強いられている弟子が無執着を得るのは難しい。したがって、魂の扉は開かぬままである。また、あらゆる重荷をうち捨てる行為を現代社会にそぐわぬとして、弟子道の不可能さを訴える声もあった。いかに普通の生活や仕事と、あの険しい弟子道を両立させればよいのか分からないのである。しかしこのように言いたい。何であれ、そのようなことを問題と考え、苦痛や不安を感じているあなたは、なぜその解決策を知りたがるのかと。なぜその苦痛の状態を重要視せず、苦痛の解決という対極に目を向けるのかと。
解決というものは人間の世界にない。あるのは一時的な解決と新たな問題発生への拍車だけである。重要なのは現在の我であり、現在の感覚である。それを愛し、受け入れることのできる無抵抗の術を知らねばならない。それは理論的なものではない。つまり、（動機から)受け入れようとすることは真の受容ではなく、依然として抵抗である。受容は、対象に対して関心がなく、無気力で、どうでもいい無的な状態でのみ行われうる。それは実のところ、魂の無関心のパーソナリティーへの反映である。したがって、これが可能になるまで訓練を積み、瞑想し、勉強し、魂との友情を深めねばならない。つねに魂が鍵であり、人間的な問題を破壊しうる唯一の力である。
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			<content:encoded><![CDATA[<p>探し求める者らの生活に楽しみや喜びは必要ない。絶えざる苦痛、陰鬱、悲嘆、諦めの気持ち、これらのほうがふさわしく好ましい。探求の合間の娯楽を持つ者は、自らの不真面目さを認め、彼にとっては逃避と趣味でしかない探求の領域を諦めねばならないだろう。探求の合間の娯楽がありえない人、それほど苦渋をなめ、もはや楽しみや喜びといったものに危険を感じる人、このような弟子だけが、中道から通ずる魂の扉にふさわしく、非人格のより高次の喜びを享受するに適している。</p>
<p>第一や第二イニシエーションを準備している弟子は言うだろう。自分の人生は不幸に見えるが、なぜかくも苦痛が喜ばしいのかと。つまるところ、苦痛だけがぼんくらを正気へと返らせ、高飛車を謙遜へと引きずり下ろし、事の火急性と切迫性に目覚めさせることができる。人々はわれ知らず欲望と恐れに掻き立てられて、いらぬ競争へと飛び出し、遅れをとり、罰を受ける。魂の居所をつきとめた弟子は、たえず競争へと飛び出させる欲望と恐れを直視し、概念としてそれらに立ち向かわず、フォースとしてそれらを尊重することでその場にとどまるだろう。結果、対象とわれ自らが何の分離もないことを悟り、欲望すなわち我、恐れすなわち我の状態から事の解消を即時に知る。</p>
<p>「問題などない」が弟子たちの口癖である。生活のなかで問題は生じるが、心理的にそれを問題と感じないと彼らは言っているのである。周囲から四面楚歌をくらった弟子が奉仕の場で動揺するだろうか。倒産寸前の社長である弟子が絶望を感じるだろうか。愛する者を失うことで悲嘆に暮れる暇が弟子にあるだろうか。弟子である彼らは、あらゆる心理的な”事件”に対しすでに免疫を得ている。そのかわり、彼らは日頃から個人的に求めず望まず、朝から晩まで自分のことを重視しない。彼らにとって、それは犠牲でも努力の賜物でもなく、また将来の不幸に備えるための策でもなく、必然的な魂の作用でしかない。</p>
<p>魂の存在を知覚的に知っており、ますますその圧力に屈しようと意図的に服従する人々が近年増えている。人生から楽しみを享受したい人は、呼びかけを無視し、出て行くだろう。いかなる魂もこの無視行為に腹を立てない。まだ克服しきれぬさまざまな欲望に打ち勝てぬ人もまた、意図的に外へ出て行くだろう。いかなる魂も彼の意図的な飛び出しを尊重する。しかし、人生から苦痛とその論理を学ぶことで自らの自演行為に恥じ入ったならば、”あるがまま”の位置へと戻ってきて、その知的な謙虚さを崇拝し、魂の楽しみに存分に耽るがいい。</p>
<p>金銭的な不如意を訴える探求者のメールをこれまでいくつも受け取った。しかし貧乏でなければ弟子道は困難である。金持ちの環境を強いられている弟子が無執着を得るのは難しい。したがって、魂の扉は開かぬままである。また、あらゆる重荷をうち捨てる行為を現代社会にそぐわぬとして、弟子道の不可能さを訴える声もあった。いかに普通の生活や仕事と、あの険しい弟子道を両立させればよいのか分からないのである。しかしこのように言いたい。何であれ、そのようなことを問題と考え、苦痛や不安を感じているあなたは、なぜその解決策を知りたがるのかと。なぜその苦痛の状態を重要視せず、苦痛の解決という対極に目を向けるのかと。</p>
<p>解決というものは人間の世界にない。あるのは一時的な解決と新たな問題発生への拍車だけである。重要なのは現在の我であり、現在の感覚である。それを愛し、受け入れることのできる無抵抗の術を知らねばならない。それは理論的なものではない。つまり、（動機から)受け入れようとすることは真の受容ではなく、依然として抵抗である。受容は、対象に対して関心がなく、無気力で、どうでもいい無的な状態でのみ行われうる。それは実のところ、魂の無関心のパーソナリティーへの反映である。したがって、これが可能になるまで訓練を積み、瞑想し、勉強し、魂との友情を深めねばならない。つねに魂が鍵であり、人間的な問題を破壊しうる唯一の力である。</p>
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